増える「心の病」と経営の危機意識
最近、「うつ病」「メンタルヘルス」に関する記事をよく目にする。警察庁の調査※1では、2007年度の自殺者数は10年連続3万人を超え、そのうち原因が「うつ病」である数が6060人に上った。また、うつ等の精神障がいによる労災請求件数は952件と、4年前の2倍以上となっている(厚生労働省調査※2)。
※1:警察庁「平成19年中における自殺の概要資料」2008年6月
※2:厚生労働省「脳・心臓疾患及び精神障害に係る労災補償状況(平成19年度)」2008年5月
このようなデータが注目を集める要因には、周囲にうつ病をはじめとするメンタルヘルス問題を抱える同僚や部下等を持っている人が増えていることが予想される。また、企業にとって自殺者の発生や労災認定者の増加は、損害賠償の対象になるおそれがあるだけでなく、企業イメージを大きく損なうという危機意識がある。実際、従業員の自殺は仕事の負荷が過大であったことが原因であるとして、企業に対する1億円前後の損害賠償が請求された例もある。
さらに、メンタルヘルス問題による休職が発生させるコストも無視できない。従業員1人がメンタルヘルス問題で長期休職した場合、休職に関する手当の支給や代替要員の確保が必要であり、年間で見ると休職した従業員の年収の2倍以上のコストがかかるという報告もある。
まさしく、メンタルヘルス対策は、リスクマネジメント、CSR(社会的責任)の観点だけでなく、企業の生産活動に直接影響する経営問題であると言える。一方で、さまざまな対策を講じるも、問題が減らないという切実な声が上がっている。
そこで本稿では、メンタルヘルス対策の現状と、メンタルヘルス問題の構造、背景を整理しながら、今後に求められる考え方を提案していきたい。
メンタルヘルスのメカニズム
図表1:メンタルヘルスのメカニズム
出所:「NIOSHの職業性ストレスモデル」を参考にNTTデータ経営研究所にて作成 |
図表2:被雇用者・勤め人の原因・動機別自殺者数(人)
出所:警察庁「平成19年中における自殺の概要資料」2008年6月よりNTTデータ経営研究所にて作成 |
メンタルヘルス問題の多くがうつ病が原因であると言われている。うつ病などストレスに起因する疾患のメカニズムを図式化すると図表1のようになる。
過重労働や職場の人間関係の悪化といった会社におけるストレス要因や、家庭や地域などプライベートな問題に関するストレス要因が、個人に影響を与える。ストレスが過剰になると、身体面では動悸や不眠など自律神経バランスが乱れ、心理面では不安が高まり、行動面ではミスを多発するというように、さまざまなストレス反応が現れる。その現れ方は、個人の性格的な特性やストレス対処能力の大小にも依存する。そして、過剰なストレスを長期にわたり蓄積すると、うつ病などの精神障がいや、脳・心臓疾患の疾患につながり、一定限度を超えると、自殺や過労死といった死を招く結果になる。
図表1のように、会社にかかわる要因と、家庭・地域要因、個人要因は相互に関係している。無論、3つの要因はマイナスの関係だけではなく、プラスの関係もある。仕事でうまくいかないことがあっても家庭の支えがあればストレスの蓄積は少なくて済むであろうし、その逆もいえる。
仕事にかかわる要因が大きいとしばしば言われるが、どの程度だろうか。前述の警察庁の自殺に関する調査によると、図表2のように有職者の自殺動機のうち健康問題が最多で(その半数がうつ病)、次に倒産や借金等の経済・生活問題、勤務問題、家庭問題となっている。勤務問題は家庭問題の1・5倍超になっている。また勤務問題の内訳は、34%が仕事疲れ、24%が職場の人間関係、仕事の失敗と職場環境の変化が14%ずつとなっている。職場問題は自殺の大きなリスクであり対処が求められるが、それ以外の引き金となる家庭問題や経済上の問題にも配慮することが求められる。
「メンタルヘルス対策」は実施。しかし…
メンタルヘルス対策を開始している企業は増加している。2007年時点で既に何らかの対策を実施している企業は8割近くに上り、従業員1000人以上の大手ではほぼ100%になっている※3。
※3:(財)労務行政研究所「企業におけるメンタルヘルスの実態と対策」2008年4月
厚生労働省は「労働者の心の健康の保持促進のための指針」を示し、各企業に対して心の健康づくり計画の策定と推進を促している。具体的には、対策を実施する主体別に「セルフケア」「ラインによるケア」「事業場内産業保健スタッフ等によるケア」「事業場外資源によるケア」の4つのケアに分け、教育研修や早期発見、職場復帰等の対策を行うこととしている。
さらに、そのうちの事業場外資源のケアに目を向けると、メンタルヘルス対策のアウトソーシングの受け皿として「EAP(Employee Assistance Program:従業員支援プログラム)」と呼ばれる事業者が活発に活動している。このEAPは、もともと米国で生まれたアルコール依存対策やメンタルヘルス対策を目的に作られたプログラムで、米国の主要企業500社のうち9割に導入されていると言われる。日本におけるEAPはメンタルヘルス対策として相談窓口や研修、ストレスチェック等を総合的に提供する事業者として発展してきており、国内に少なくとも約40は存在している。
このように、民間、国、EAP事業者含めてメンタルヘルス対策に躍起になっているのにも関わらず、依然としてメンタルヘルス不全者は減らず、むしろ増えている現状にある。企業のメンタルヘルス担当者からは、厚生労働省の指針に示されるような対策が重要であることを理解し体制整備をしたものの、従業員の利用が少なく効果が見えない、具体的な事象が発生した際の対応が分からない、また企業がどこまで責任を持てばいいのか、といった悲鳴に近い声が上がっている。
なぜうまくいかないのか
メンタルヘルス対策がうまくいかされていない理由には、次の点が挙げられる。
1つ目は、体制を整備しても、実効性あるものにするための社内コミュニケーションが不足しているという点である。人事担当部門や健康管理部門がいかにメンタルヘルス対策が重要であると認識し、カウンセリング窓口を設けても、従業員はその存在すら知らないことが多い。また一連のストレスチェックや各種メンタルヘルス対策研修に対する効果もその場限りであることが少なくない。つまり、施策の持つ意味が従業員に伝わっていないのである。従業員に対する施策を展開する際にも、いわば従業員向けのプロモーション活動が求められる。何のために施策を打つのか、施策を利用することにより従業員にどのようなメリットがあるのか、というメッセージを、広報誌や社内Web、集会等、さまざまなコミュニケーション機会をとらえ、継続的に伝えていくことが必要である。
2つ目は、コミュニケーションの基盤となる会社と従業員との関係性の変化という点である。以前は、従業員は会社の庇護で会社のルールに対する忠誠を求められ、従業員もそれに応えてきた。つまり、両者は強固な依存関係にあったと言えよう。しかし、その後の厳しい経営環境のため、会社は効率性を高めるために成果に応じた人事評価体系を取り入れ、雇用を守るという前提も崩れ始める。人員が減少した職場では、管理職も従来の管理業務のみならず、自ら成果を求められるプレイングマネジャーとなり、一方で業務内容が狭く深い範囲になることで、組織自体が「タコツボ化」※4することになった。従業員は、職場にいるだけで守られる存在ではなくなってきたのである。それに呼応するように従業員の価値観も変化し、ひとつの会社や組織に忠誠を尽くすことも少なくなってきた。
※4:高橋克徳他「不機嫌な職場」講談社現代新書2008年1月
会社と従業員との依存関係が崩壊し、相互の信頼も失われつつあり、特に経営層に対する信頼の低さは30代以下の若年層に顕著である※5。ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)とも言える社会的な信頼関係の喪失は、人々の不安やストレスを増幅させ、ある疫学調査では、雇用に対する不安が心だけでなく身体の健康に影響を及ぼすという結果が報告されている※6。信頼関係という根本にある問題に手をつけずに対症療法的なメンタルヘルス体制を整備しても、いたちごっこに過ぎないのである。
※5:社会経済生産性本部「2007年版産業人メンタルヘルス白書」2007年8月
※6:近藤克則「健康格差社会」医学書院、2005年9月
“自律”を育てることで根本的な対策を
では、信頼関係を築くにはどのようにしたらよいだろうか。性別、国籍等の人材の多様化、また働き方の多様化が進む社会において、会社と従業員は新たな信頼関係を確立すべき段階にきている。その新たな関係とは、従業員がキャリアとメンタルヘルスの両面で「自律的」な人間になり、会社はそれを支援する存在になることであると考える。
キャリアマネジメントの文脈で語られる自律的な人間とは、主体的な仕事への取り組みや社内外のネットワークづくり、スキル開発への取り組みを行うことで、自分らしいキャリアを継続的に切り開いていくことのできる人であり、昇格や昇給のような”外部“からの評価ではなく、動機や価値観などの”内的“な評価に基づくことが肝心であるとされている※7。
※7:高橋俊介「人が育つ会社をつくる」日本経済新聞社、2006年
このような自律的な人間が増えることは、メンタルヘルスの予防や対処にも有効である。なぜなら、メンタルヘルス対策に求められるのは、自らがストレスを考え方や行動等により適切に対処できる力、すなわちメンタルヘルスにおける自律的な力であるからである。強いストレスに対して我慢を続けるといった過剰な適応行動はメンタルヘルス不調を招く一方、ストレスをすべて自分以外の外的要因に帰する行動もメンタルヘルスに問題をきたす。ここ数年、若年層を中心に増加している「現代型うつ病※8」は、自己愛や甘えが強く会社にいる間のみ発症するものであり、自律的な力が欠けている典型であろう。
※8:医学的な正式な名称ではない
以上のように、自律的な人間は、主体的に物事を捉え対処する力を持つことを意味している。このような人間は、会社の経営的視点からは、厳しい経済環境を乗り切る上で不可欠な人的資源である。つまり、経営戦略として自律型人間を育成、支援することが求められるのである。従業員が自律型人間を目指し、会社がそれを支援する関係が、新たな信頼関係につながり、それがメンタルヘルス不全を抑制するという好循環をもたらすのではないだろうか。
メンタルヘルスのこれから〜持続可能な経営に向けて
これまで述べたように、メンタルヘルス対策は経営戦略に直結する。現状のメンタルヘルス対策におけるセルフケア研修やチェックプログラムは、ストレスの症状や対処法に終始しがちだが、むしろ人材育成戦略の一環として位置付けるべきである。
また、現行の健康管理対策では心の健康対策と身体の健康対策は別々に実施されているところが多いが、両者が連続的であり、かつそれが経営に直結することも認識すべきポイントである。抑うつは虚血性心疾患の危険因子であることが既に報告されており※9、それに至らない段階でも、ストレスが高血圧や片頭痛、じんましん等の身体の不調を招くことがある。軽度のうつ病や片頭痛等により、出勤はしていても頭や体が思うように働かない「プレゼンティーイズム」といわれる状態は、大きな生産性低下をもたらすと言われている※10。
※9:近藤克則「健康格差社会」医学書院、2005年9月
※10:ポール・ヘンプ「プレゼンティーイズムの罠」ハーバードビジネスレビュー、2006年12月
したがって、これからのメンタルヘルス対策は、従来の健康管理の枠にとどまらず、心身を連続的なものとしてとらえ、かつ、経営における人材戦略の観点に立脚し、「持続可能な経営」に向けた人材育成の手段として位置付けるという発想の転換が求められる。そして、これらを具現するためには、健康管理部門・産業保健スタッフと人事・人材開発部門が密接に連携して、さらに経営層が深く関与することが大切なのである。