はじめに
わが国の医療費は31兆円にも上り、今後も増加を続けていくことが考えられる。特に今後、団塊の世代が高齢者へと、そのセグメントを移すようになれば、高齢者に対する医療費の増加はまず間違いない。このような環境下、政府・厚生労働省は医療制度改革を推進してきており、その変化をビジネスチャンスと捉え、大小さまざまなプレーヤーが医療・ヘルスケア領域に新規に参入を図ってきている。しかしながら、多くの事業は継続されることなく撤退しているのが実情である。規制が緩和されるから、業界環境が変化するからといって参入を実施したとしても、業界構造の理解と、それを土台とした深い検討なくして成立することは困難である。
具体的な検討の進め方については別稿(本誌P.46「ヘルスケア分野における新規事業モデルの検討の進め方」参照)に譲るとして、本稿では日本の医療システムが直面している課題と、それに対するサービスの方向性について記述する。
日本の医療システムの現状
そもそも、日本の医療システムの現在はどのような状況にあるのか。
近年、医療技術の進歩により、従来は治療が困難と思われていた疾患についても、さまざまな治療方法が確立されつつある一方で、医療事故や医療訴訟は増加してきている。
昨年、奈良で起きた妊婦死亡問題。19の病院で受け入れを拒否され、収容された国立循環器病センターで緊急手術を受け、帝王切開で男児を出産したが、女性は脳内出血で亡くなられた。初動における医師の判断の遅れはあったものの、それ以上に日本の医療システムにおける問題が露呈した事件であろう。
この場合、患者の受け入れに際しては産婦人科医、脳内出血に対処するための脳外科医、緊急手術に必要な麻酔科医など複数の分野の専門医確保と、ハイリスクの患者を収容するための集中治療室(ICU)、新生児集中治療室(NICU)などの緊急態勢が整った病床が必要と思われる。それだけの人員・設備を有しないまま仮に患者を受け入れた場合、患者の生命の安全の確保は難しく、また設備が不十分なことを承知で患者の受け入れを行った医療機関は医療訴訟の対象となるリスクが高まる。一人の医師個人が何とかして患者を助けようと考えたとしても、近年の医療機関を取り巻く経営環境はそれを許さない状況に置かれている。
そのような状況に対応するため、常に十分な人員・設備を保有する施設を整備することはコストの問題も絡み、非常に困難なことであることは容易に想像がつく。政府自治体が補助金を出して拠点施設を構築したとしても、対応の限界はあり(今回の事故の際、大阪府立母子保健総合医療センターも満床であった)、民間の医療機関単体で考えた場合、採算が合わず継続して医療サービスを提供することは難しい。
特に医療制度の変更が毎年のように実施され、診療報酬もマイナス改定されるような苦しい経営環境下では、人員・設備を充実させること以前に、そもそも病院の7割近くは赤字といわれる経営状況をいかにして改善していくかが焦眉の課題となる。慢性的な赤字が続いているようなこのままの状況では、医療機関の閉鎖・倒産が進み、医療システム自体が崩壊する恐れがある。
このような状況が問題である。設備を充実させようにも慢性的な赤字体質にある医療機関は十分な投資ができないため実現されず、緊急の患者の受け入れを打診されたとしても設備が不十分と思えば患者の受け入れを躊躇してしまう。仮に受け入れても問題が発生した場合は医療訴訟やマスコミからの糾弾があり、そのため医療機関は自己防衛的にリスクの高い患者の受け入れを拒否する悪循環に陥ってしまう。患者は本当に生命のリスクが高まった際にも十分な医療サービスを享受することができない。
医療・ヘルスケア領域に新規に参入し事業展開を図りたい、と考える際には、その中心となる医療システムが前記のような状況にあることを十分理解した上で検討を進めるべきである。制度変更により新たなマーケットが創出される、健康意識の高まりにより健康増進・予防分野の市場が立ち上がる、IT技術の進歩による新たなITニーズが発生する。さまざまな思惑を秘めてプランを練ったところで、市場の構造的な課題を理解しないままでは画餅に帰すだけである。
提供付加価値と収益源
新規にサービスを提供するに当たり、どのようなビジネスモデルを構築するか。誰に対して、どのような付加価値を提供し、どこから収益を得るか。これらを明らかにすることが第一歩である。
先にも述べたように7割の病院が赤字であり、また健康保険組合の破綻など医療財源確保の問題が深刻化しており、高齢化による医療費の高騰とそれに対する各種医療費抑制策の実施などが進んでいる。医療機関や医師から収益を得るモデルを新たに構築することや、医療サービスの一部を代替し収益を得るモデルを構築することは、このように締め付けの厳しい状況下では非常にハードルが高い。
逆に予防や介護などの周辺市場だけを見据えて新たにサービスを提供しようとしても、本丸である医療の領域が破綻すればサービス自身の必要性が薄れてしまうか、別に本丸の医療と強く結びついた類似のサービスが提供されれば、顧客はそちらにシフトしてしまうことが想定される。
また一般の生活者をターゲットにサービスを提供しようとしても、必要な状況に陥るまでは多くの人は健康に対するサービスに対価を支払うことはほとんどないか、あっても(マスコミなどの情報による)一過性のものとなってしまうケースが多い。健康のために良いサービスに対して支払いを行うことは稀であり、逆に喫煙・飲酒など各種リスクを高める行為は日常的に繰り返されている。
サービスを検討する際には、ターゲットの領域を狭く捉えて考えても、実現することは非常に困難であり、周辺プレーヤー全体を考慮してモデルの構築を進めることが重要である。また、そのサービスが生活者の健康や、医療に対してどう貢献するのかも含めて考えなければならない。その上で、提供付加価値とその構成要素を明らかにし、収益源を設定することが必要である。
考えられる方向性
ここまでは医療の現状が直面している課題と、新規にサービスを検討する際の考え方を記してきたが、考えられる一つの方向性としては、医療機関・医師などの医療の領域に対して付加価値を提供しつつ、そこから得られた知見や情報、チャネル、影響力を持って周辺のプレーヤーや生活者に対してサービスを提供し、収益を得る仕組みというものが想定される。ここでいう医療の領域に対する付加価値とは、医療機関経営への貢献や、研究・開発など医療の質の高度化への貢献などが考えられる。
仮に、高血圧や高脂血症など慢性期の疾患を罹患している患者に対して効果的な健康食品があったとする。マスメディアで効果があると取り上げられたところで一過性のブームで終わる可能性もあるし、広告を打ったところで、そもそも一般の生活者にとっては不必要なものであり、プロモーション戦略としては稚拙なものである。
しかし、もしこれが循環器系の医師をチャネルとして販売することができれば状況は異なる(当然科学的なエビデンスは必要であるが)。かかりつけの医師から患者の健康状況に応じて商品を勧めてもらえた場合、恐らくその商品の最も効果的なプロモーションとなることは想像に難くない。また疾患の特性上、継続して受診されるため、リテンションをかけやすい。
この場合、医師に対しては販売手数料の支払いによる病院経営への貢献と、受け持ち患者のQOL(Quality Of Life)向上という付加価値を提供しており、その対価としてチャネルとしての役割と専門的な観点からのプロモーションが実施される。また、その健康食品の摂取による健康状況の変化をモニタリング・解析することにより、エビデンスの明確化と予防医学への貢献の可能性があることもメリットであろう。患者に対しては自身の健康回復に寄与する食品であり、かつ専門家のお墨付きがあるので信頼して摂取することができる。それに対して対価を支払うという形になる。
非常に簡略化しており、実現は容易ではないが、方向性としてはこのようなモデルが考えられる。
さらに環境変化や周辺プレーヤーを考慮した場合、どのようなモデルが考えられるか。今後、団塊の世代が退職し高齢者へと移行するとともに、当然彼らの予防・医療・介護サービスに対する需要は増加すると思われる。ただし、加齢とともにリスクが高まるのは確かであるが、現時点でのニーズは顕在化しておらず、自由になった時間をどう扱うかなどが大きなウェイトを占めるであろう。
彼らの今後の活動として考えられるのは地域や趣味などを通じた自発的なネットワーク化・組織化がある。しかしながら当然活動に際しては外部のサービスを利用する可能性が高い。
過去に取り組んだプロジェクトで、そのような顧客組織に対して、医療機関、顧客組織が活動しているドメインのサービス提供者の複合体によるアプローチを実験的に試みた経緯がある。顧客組織が通常の活動を行う際に必要となるサービスを提供するとともに、彼らの健康に対するニーズを確認しつつ医療機関と連携して情報提供を実施し、必要に応じてセミナーや健康診断なども実施した。
この場合、医療機関に対しては個別に実現するには労力を必要とする、かかりつけ医の実現をサポートし、経営基盤の安定化を行った。サービス提供者に対しては顧客組織とのリレーションの強化によるクロスセルの実現を、顧客組織に対しては必要としている商品・サービスの提供(当然ヘルスケア関連の商品・サービスも含まれる)と、医療・予防に関する知識の提供、信頼できる医療機関の確保が挙げられる。通常では患者としてしか接点の無い医療機関であるが、このような組織化を進めることにより、情報の非対称性が顕著な医療・予防分野における知識を確保し、自身の健康増進に役立てられること、また万一の際に安心してアクセスできる医療機関を確保できたことが顧客組織にとっても有益であった。
おわりに
今後の日本では高齢化による医療費の高騰、医療提供体制の構造的な危機など、深刻化する問題が多く、既存のプレーヤーだけでは対応が困難な局面が訪れることが想定され、新たな仕組みやサービスの提供が求められていることは確かであろう。
どのような付加価値を持ってマーケットに新規参入するか、検討すべき点は多々あるが、根底にはやはり、日本の医療システムにそのモデルがどう貢献するかをしっかりと見据えて検討を進めるべきである。